(学生ビザであったため、リトグラフのクラスを専攻)
引っ越したばかりの、チャイナタウンのロフトで全ての機材を自前、手作りで揃えました。
日本での完成された専門のシルク機材と比較すると、笑えるくらい、素朴すぎるものでした。
しかし、実はそこに規制品に依らない、開放された自由があることに気づくことになります。
リーグに完成した作品を持って行った時、インストラクター達に技法を聞かれたりと、高評価でした。
後年に、リーグオフィスから「教えに来ないか」との要請がありましたが、断ってしまいました。
ニューヨーク最初の作品は、日本からの系譜が顕著でしたが、それを断ち切りたいとの思いもあり、紙、インク、技法も変え改良を重ねていきました。
何よりもグラフック的要素を払拭し、絵画的表現へと、これまでの10−20回刷から、50−60回刷、全工程透明ぼかし、複雑な工程へとエスカレートしていきました。
日本では、シルクスクリーンが盛んでしたが、アメリカでは、真逆で、むしろその技法は避ける傾向にありました。
アンディ・ウオホルに代表されるシルクスクリーン技法ですが、ファインアーチストである ウオホルは別格で。
版画の世界では大量生産のコマシャリズムとして見なされており、何ランクも下で、版画家でシルク作家は皆無に近い存在でした。
それ故、私の技法はシルク版画とはわからないないようにしていく必要があり、そのことが、自身が変われるチャンスでもありました。
新技法になってからは、コンペの審査員に間違われ、水彩画として受賞したこともありました。
版画らしくない版画表現へと、向かっていくことになります。
チャイナタウンのロフトでの製作風景、1978年
Bowery Street(バウリーストリート)当時 ここはアル中ストリートと呼ばれ(多くのリッカーストアがあったため)人生を捨てた、行き場のない乞食たちが集中、彼らのことをバムと呼んでいました。
シカゴの女性画廊オーナーが来た時は、かなり警戒した様子でした。